危険物を取り扱うおもさ|面接と制約

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どうして苦手に感じているのか、を考えてみている。

面接が苦手に感じているということは、理想とか当たり前と思っているコミュニケーションとは違う部分があるのかもしれないということだ。

面接という場でのコミュニケーションについて

まずは、面接でのコミュニケーションの特徴を挙げていってみよう。

  • 情報量の非対称性
  • 漸進的に、何かが明らかになっていくわけではなさそう
  • 場合によっては、双方向的ではないかも

情報量の非対称性

求職者は履歴書や職務経歴書などを企業の担当者に提出している。面接を担当する者が読んでいるかは場合によるかもしれないが、アクセスしようと思えば、求職者の情報に触れることができる。一方、求職者は面接を担当する者について情報を得るということは困難なことが多いことだろう。

非漸進性

面接という場では限られた時間内でという性質がある。面接を担当するものは限られた時間で求職者に関する情報を収集し、それを評価する必要がある。短時間で必要な情報を得るということは、通常のコミュニケーションシーンではあまりないかもしれない。

例えば、会社内で同僚や上司の性格について理解していく時、「好き嫌いと教えてください」と面と向かっては言わないはずである。相手との関係性をお築いて生きながら、徐々に理解を深めていくという感じではないだろうか。

非双方向性

面接を担当する方の質問に答えても、回答に対するリアクションを得られるとは限らない。万一にも、一問一答形式になった場合には、質問する側、質問に答える側と立場が固定化される。回答だけをする側に固定化された場合は、相手からのフィードバックがない状況に陥りがちで、どのように回答するべきか苦慮することになる。そして、この差異は解消サれることはない。

理想的なコミュニケーション?

情報量の非対称性、非漸進性、非双方向性が、面接という場を特徴づけ(異質なものと感じさせ)ていると考えられる。一方で、どのようなコミュニケーション、他者理解を理想的だと考えているのだろうか?

その解は、容易に想像できる。面接でのコミュニケーションの逆の特徴を持つコミュニケーションスタイルを理想としている、ということになることだろう。その理由を少し掘り下げていって、面接をすこしでもうまくこなせるヒントや対策ポイントは得られないだろうか?

対等であるということ

上から目線だとか、横柄な態度な人とは付き合いたくない、というのが多くの人の本音だろう。

時間をかけて、すこしずつ印象は形成されていくというもの

これは、面接という場でのコミュニケーションの特徴の大部分と対になるものかもしれない。

通常、他人に対する印象というものは、少しずつ時間をかけて形成されていくもの。徐々に相手に対して、情報を開示し、それに対して、なんらかの反応があって、というような過程を経ることだろう。その際、最初の印象を、いいものであれ、わるいものであれ、訂正していくことになるだろう。経験的に相手に対する思い込みはさけるべきだと知っているし、案外話してみればどうにかなるという感触をこれまでに得ている。

交渉事や相談などをする際は、相手が提案に拒否されたり、場合によっては、今後の関係を一切断ったりすることになってしまうかもしれない、という恐れがある。相談や交渉を受けるものは、単に自身の立場や都合のみならず、相手の求めの真意を推し量る。双方は、互いに対して、それなりの配慮をしていることだろう。

距離感をすこしづつ探りながら、ほどよい距離をとりながら、付き合っていく、というのが通常のコミュニケーションだろう。また、自身の理解・評価能力の限界というものについて、多くの人は自覚的である。そして、当然に、双方が互いにそれなりの遠慮や配慮というものがあるはずだ。さしあたり、こんな感じでまとめておこう。

やさしく包む必要性と違和感と

面接という場でのやりとりは、言ってみれば、通常のコミュニケーションとは異なり、軽量化されたコミュニケーションということなりそうだ。 そして、より直接的で、はだかのコミュニケーションともいえよう。

もちろん、そういう場でも最低限の配慮はなされている。 面接という場ではオブラートに包んだ大人語でやりとりがされる点において。

オブラートに包むということは、なにか包まなければならないような取扱注意にしなければならないものが、その中にあるということになる。オブラートに包みつつも、やりとりされているものは、オブラートに包んだ中身である。

面接という場でのやりとりは、さらに、はだかの、軽量化されたコミュニケーションという矛盾を抱え込み、大人語というオブラートの存在で糊塗している。

採用面接という場で問われる求職者の「自己」というものは、それこそ、もっとも取扱を注意しなければならないものだし、時間などの制約により、かなり軽量化されている。面接という現場では、かなり乱暴で下品なやり方で、コミュニケーションしていることになる。

採用面接の救いのありかは?

すごく消耗してしまう気分になってしまう理由は明らかになった。 だが、ここからどうにか救いの水脈を見出すことはできないのか?

通常のコミュニケーションにおいて、人は自身の「他人を見る目のなさ」に悩まされる。採用担当者は、自社の会社の利益や損害に関する決定に関与することになるから、他人を見るということの難しさを深く理解していることだろう。

ここで思い返そう。通常、ひとは他人に対する評価を徐々に形成する。その際、期待しているのは、とくに悪い印象が解消されていくことではないだろうか。

では、そもそも最初に印象がよすぎる人に直面したときどう考えるだろう?例えば、そういうひとがわざわざ自分に言い寄ってきたとしたら、どうだろう?よっぽど自己評価の高い人ではなければ、この人には「意図」があると考えるのではないだろうか?

話していく内に「案外悪い人ではなかった」という安心感がある一方で、これから悪い部分が明らかになって、それが何もつかめない不安。

「あの人案外悪い人でないよ」といわれる人は、良い部分もあって、悪い部分についてはフォローしていくのがいいと感じだろう。

これが、採用の門戸をひらく鍵になるのではないだろうか。

人間にはよい部分も悪い部分もある。隠されていると対応しづらい。だから、「よい部分」についてのみならず、「悪い」部分についても知っておきたい。通常の面接では、この「悪い」部分は隠されて、よい部分のみに焦点を当てようとする。だから、よい部分のほころびを見つけて、ほころびを端緒に「悪い」部分を明らかにしようとする戦略が取られる。

「悪い」部分の取扱というのが、採用面接の鍵になりそうだ。