見ているのか聞いているのか?大河ドラマ|小林秀雄『考えるヒント』

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なんとなしにTVを見ていると、ついつい見入ってしまうのが、大河ドラマなどの時代劇。 激動の時代といわれるような時代、とりわけ、合戦などがある場合、だいたい、内容は予測できてしまうのに、ついつい見入ってしまう。別に興味があるわけではないのに、止まらなくなってしまう。

いや、見入っているという言葉は不適当かもしれない。 なぜなら、わざわざ、ドラマを見るためだけに、時間を取るということは多くの人はもはやしないのではないだろうからだ。

食事をしながら息抜きに、だとか、アイロンをあてながら嫌気が差さないようにとか、日々の限られた可処分時間のなかで、どうにか人間らしくいられるように、物語との接点を持っている。

重要そうなシーンになったら、画面に釘付けになって、洋服にソースのシミをつけて大慌て、気づかぬうちに、アイロンに触れてしまって痛い思いをする経験は2,3度ないだろうか。画面を見るときがあればよいほう。強者となれば、携帯をいじりながら、音声だけを聞いて満足できる。

つわものどもがが着用した甲冑を端緒に、「平家物語」の面白さを説くのは小林秀雄。平家物語といえば、合戦などを扱うジャンル、軍記物語で広く知られている。その冒頭をそらんずることが出来る人は多いことだろう。

祗園精舎の鐘の声、 諸行無常の響きあり。 娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。」

この部分だけを切り取っても、無常観だとか、漢語と和語の取り合わせ、といった特徴を指摘できよう。 この、漢語と和語の取り合わせ、和漢混淆文について、小林は言う。

成るほど分析的に読めば、和文調と漢文調とが交錯した雑然として奇妙な文体には違いない。(……)和漢混淆文という言葉は、いつ頃から使い出されたものか知らないが、「平曲」という肉声が、もはや聞けなくなり、「平家」という活字本を目で辿るようになってから、使われだした言葉には相違あるまい。 しかし、熟読すれば、活字本に言わば潜在する肉声は、心で捕える事が出来る。今日、「平家」を愛読する者は、皆そうしているはずだ。

活字本の流通と黙読が、和漢混淆文という用語の発見に関与しているかの是非は、能力を越えているので、問わない。ここで大切なのは、かつて琵琶法師といったような人々の声で人々が平家物語を「読んでいた」ことに、小林が注意を促していることだ。「活字本に言わば潜在する肉声」を聞き届けることを、愛読家はしているとまで言う。

さらに言うと、平家物語が人々をひきつけ、名文という評価を与えるに寄与しているのは、小林によれば、「声」だ。小林自身は、平家物語が名文であるという評価については懐疑的だ。

「平家」の名文という言葉は惑わしい。例えば、「海道下り」は名文だという。だがあの紋切り型の文句の羅列を、長い間生かして来たものは、もう今はない検校の肉声であった。逆に、肉声を以って、自在にこれを生かすためには、読んで退屈な紋切り型の文体が適していたとも言えるだろう。

小林がこの紋切り型の文体で注目するのが、自然の描写。平家物語は「工夫を欠いているように見える」という。

あの解り切った海や月が、何とも言えぬ無造作な手つきで、ただ感情をこめて掴まれる。何処を読んでもそうだ。読んでいるうちに、いかにもこうでなくては適うまいと思われて来る。

もちろん、大河や時代劇を作る人は、音声だけでなく、映像をつかって表現していることだろう。しかし、セリフに対してのバックグランドの風景などの舞台も描きこまれている。登場人物の表情だってみた方がいいし、なんのための美男美女の俳優なのかわからない。

「声」で読むという、小林の指摘に気付かされるのは、時代劇、とくに大河ともなれば、ナレーションの挿入が多いように思われることである。短い時間でわかりやすい言葉で語られる。

最低限、ナレーションやセリフなどの声を聞いていれば、物語がわかる。平板だからこそむしろ聞いて、見ていられる。 それは悪いことではない。「感情をこめて掴まれる」。情動は動かされているからだから。「こうでなくては適うまい」。裏切られたときの愉しみや喜びを密かに期待しているのだから。

大河を見ているのか、聞いているのか、わからなくなる。 ただ、少なくとも聞く愉しみはある。 忙しい毎日の中で、私たちは「平家物語」の「読者」のひとりであることは間違いなさそうだ。