通り過ぎてしまう日常を拾い上げる|高村薫『半眼訥々』

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高村薫『半眼訥々』は、高村薫の1993年から1999年にかかけて、新聞や雑誌に掲載されたエッセーなどを収録した作品である。

本書のタイトル『半眼訥々』の「訥々」とは、口ごもりながら途切れがちに語ることを意味するそうだ。

「半眼」とは、目を半ばまで開いて様子を窺うことだから、 気合を入れて目を見開いて日常を眺めるのでもなく、 かといって、目を閉じ社会を拒絶するのでもなない。 すこし冷静に言葉をさぐりあてながら、日常について語っていく、ということを予めこのタイトルは伝えているのだろう。

高村自身は本書に収められたエッセーのことを「雑文」と読んでいる。 その理由を「物事の個別の諸相には触れ得ていないし、十全な考察や見当を欠いている」点などに求めている。 また、高村は「どこまでも《情緒》や《気分》に訴える言葉の段階に留まるしかない」というのだが、果たして、それには価値がないのだろうか。

「家屋の陰影」という、高度経済成長の時代以降、徐々に日本の住宅が明るく光を取り入れるようになったことについて触れているエッセーが収められいる。 その中の一節。

大きなガラス窓から入る眩しい陽光と、家じゅうに灯っていた蛍光灯の明かりのもとで、すみずみまで照らされた家族の姿は、一面では明るいマイホームの象徴であるのかも知れないが、他方では、家族といえども個人である一人ひとりから、その尊厳や謎が剥ぎ取られたようにも見える。小さな明かりの下で新聞を読んでいる父や、裁縫をしている母の顔の陰影に、人間存在の奥深さを見るという経験は、少なくともさんさんと光の降り注ぐ家では、もうないに違いない。

高村は、このエッセーの前段部分で、高村と若者たちの感性の違いが生じてきている可能性を指摘している。 すこし大げさな気もするが、「小さな明かりの下で新聞を読んでいる父や、裁縫をしている母の顔の陰影」のなかに、なにか不思議と「謎」があったような気がするのはなんとなく理解できる。そして、蛍光灯の明かりがさんさんと隅々まで照らされている家では、陰影とともに謎も消えているように感じるというのも分かる。

父や母の姿のほかにも、「日の当たる植え込みの下に、深々と苔の生えた日陰があった」という古い日本家屋の前裁の姿など、小さな日常の姿を高村は拾い上げながら、このエッセーを書き上げている。

感性の違いなどと言われると、すこし身構えてしまうかもしれない。

だが、陰影の中に不思議と「尊厳や謎」を見てしまうなら、どうだろうか。

誰にでもあったかもしれない、どこかで通り過ぎ去ってしまっていたかもしれない日常のすがたとともに、ひとの不思議な傾向を指摘されると、納得できよう。

普段感じているのにもかかわらず、言語化をするほどのものではないと過ぎ去り、言語化しそこねているような感覚をふと思い起こさせてくれる。 そして、その感覚を解きほぐす高村の筆致に吸い込まれていく。

高村は自身のエッセーについて「どこまでも《情緒》や《気分》に訴える言葉の段階に留まるしかない」 などと卑下するものの、しかし、その《情緒》や《気分》が日常のさらなる理解へと開くのではないろうか。