元カノに偶然あってしまった|気まずさとの戦い?

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たまたま、出先で寄った商業施設で、元カノらしき人物にあってしまった。 相手もビクッと反応した感じだから、きっと元カノに違いない。 お互いにとって、あまりいい思い出になっていないときに、感じる気まずさ。 どう対処していますか?

らしき人物を偶然目にした時、体が無意識のうちにビクッと反応している。 あっと気づく前に生じた反応。相当に嫌だったんだろうという気がする。 無意識のうちに反応しちゃっている。予想外だったから、こればかりは本当に防ぎようがない。

「失礼ですが、誰それさんですか?」なんて声を掛けて、人違いだったら恥ずかしい思いをするのはな、という一瞬のためらいすらない。 そもそも、確認すらしようと思わないし、本人だと分かったとして、だからどうなる?という気持ちしか沸かない。

それが寂しいという気すらしない。

率直な心情として、もう関わるつもりもない。だから、感づいてはいるけど、わざわざ確認する必要はないし、お互いにもう連絡もとれる状態ではない。その状態を続けてきたのだから、わざわざ声かける必要はない。

なにもせず、相手のことには関心を払うことはよそう。

とはいえ、しばらくして、自分の冷たさのようなものを感じて、罪悪感を覚えるということもあるかもしれない。 例えば、「あのとき、ああすればよかったんだ」という後悔のような気持ちが相手と対面したのに湧いてこない、という点について。 あるいは、相手のことを相手だと認識せず、そのまま、世の中のその他不特定多数のような扱いをしてしまった点について。

どこか1点で接近したり、交わったりしたかもしれないし、それすら存在していない、忘却しているかように振る舞っている点について、疚しさ(やましさ)とでもいうべき感情を抱いてしまっていることには自覚的である。

なぜ、疚しさを覚えてしまうのか。相手に対して、嫌悪感や拒絶感を覚えてしまうということは、すなわち、深い感情を抱いていることだから、か。深い感情を抱いている人に対しては、相応の態度や礼節があり、それを欠いている、とわかっているから、ということになろう。

興味深いのは、とはいえ、精神的・心理的な問題と、ある種の理性的な態度の問題の衝突になっているが、これを解決するために、ある種の技術や手法を取り入れようとすると、むしろの衝突や対立は解消されないように感じられてしまうことである。むしろ、技術や手法が洗練され優れていれば居るほど、ますます疚しさの問題の袋小路に追い込まれる気がする。つまり、対人能力が優れている結果として、その場をうまくやり過ごしているということは、すなわち、嫌悪感と理性的な態度の間の対立関係はなんら解消への道筋を得ていないということになるからである。

この疚しさの袋小路は所詮、疚しさを覚えている個人の内的な問題にほからないとも言える。つまり、精神的・心理的な問題と理性的な態度の間の連絡をいかに自分自身でつけるのかという問題になるからだ。あれをしたい、これをしたいという思いを実現する自由と、一方で社会的な規範と自身で感じているものとの調整を内部的にどう理屈づけるのかという問題になる。

結局ところ、自身では解消できず、相手を必要とする問題となるが、ある種、絶えず、相手との交渉をし損ねることを通じて、感情と社会的な規範・自身にとっての理想を確認しつづけることになる。理想を失敗によって絶えずしつづけることによって、次こそはしくじらないように、と振る舞うことができるのだろう。